不登校の親の特徴なんてない、不登校になった原因・不登校からの復帰・不登校になった時の対応などを綴ります

不登校

モンゴロイドが不登校だった時代のことを一言でいうと、「記憶がない」です。
人間の脳って嫌な記憶は削除されるという話をよく聞いたことがありますが、これは本当だと思います。
記憶がないながらも、不登校だった時の事、現在不登校の方や親御さんに向けてご参考になれば良いなと思います。

1.不登校になったきっかけ(モンゴロイドの場合)

中学校1年の秋ごろ、当時超生意気(笑)だった私は友達と先輩に呼び出しをされた。

そこには友達と思っていた同級生あわせて10人以上の女子がいて、時間は定かではないが散々文句、悪口、罵声を浴びせられた。
私は正義感が強く、友達を守らないとと思っていたため、友達を代表して生意気にも先輩に何かしら反発を言っていた。

内容としては、今は笑って話せるが「スカートが短い」だの「生意気」だのそんなところだったと思う。

また、その中には私がとても信用をしていた友達が、お前の悪口をその友達がいっていたとか、お前は嫌われているなどのことも言われ、内心「えぇ~そんなこと言ってたの…(´;ω;`)」となりつつも、何も気にしてないそぶりをしていた(笑)

一通りのやりとりが終わって、あまりのショックに歩いて近くの公衆電話で母に電話した。
母の声を聞いた途端、今まで張りつめていた糸がぷつんっと切れて、涙を流して迎えにきてと多分言ったかと思う。

そこから私の記憶は曖昧だ。
母には事情も話し、学校の先生にも話し、しばらく休むことになった。
母は以前から先輩後輩の上下関係が厳しいことは知っていたので、

「あんな学校しばらく休んでいいからね!」と言ってくれた気がする。

当時の家族の状況もあまりよく覚えていない。
しばらく学校に行かないことを心配なのか、世間体を気にしてか当時生きていた祖母に「なんで学校いかないの?」と聞かれて号泣した覚えはある。
休んでいる間、部屋で何をしていたのかとか、何の音楽を聴いていたのかとか、断片的な記憶はあるもののあまり思い出せない。
それほど、当時の私の心はショックを受けていたんだと、大人になってから改めて実感するようになった。

学校にいけない日々が続くと同時に、食べれない日々が続き、みるみる体重がおちていった。
母はなかなか回復を見せない私と一緒に子供の頃から通っていた大きな病院の小児科へ受診した。
なぜ小児科かというと、今はもう鬱病や不登校など珍しくない時代になったが、私が学生の時にはまだ頭がおかしくなった人という誤った偏見が少なからずあったかと思う。
それに入院となったら、精神科に入院させてしまっては娘が可哀想という母の思いもあったと思う。

母に連れられて病院に行き、初めに母が先生と話す。
そして、母の続きに私。最後に親子一緒に先生の話を聞いていたと思う。
先生に何を告げられていたのかよく覚えていないが、とりあえず環境を変えてゆっくり療養することを勧めると言われた気がする。

私は家にも居場所のなさを感じていたため、先生に泣いて「入院したい」といった気がする。
言われた内容はよく覚えていないが、大人数対私含め友達3人ぐらいで長時間悪口や罵声を浴びせられた、また信頼していた友達が私の悪口を言っていた、親友だったともっだちの妹(双子の姉と仲が良かった)が先輩(敵側)に居たことなど、様々なことが重なってショックを受けたのだと思う。

大人になって、冷静に考えてみると私のメンタルは豆腐メンタルだっていうことに、もっと早く気づいて、自分に優しくしてあげればよかったと、うつになってからよく思うようになった。

2.不登校から拒食症、そして入院

「それでは入院しましょう」

先生に言われて、家からも学校からも離れられる!!という嬉しい気持ちと、入院してしまうんだ…という自分への呆れを感じた。

病院は大学病院みたいな大きな病院で、当時13歳だった私は小児科では通せなく、先生が色々配慮してくださって、健康ドッグで宿泊する人様の部屋を割り振ってくれた。

部屋はベッドが二つあったが、私は退院するまでずっと一人だった。
普通の病室からも離れ、少し隔離されている状況の方が私は好都合だった。
家族、また病院から近い親戚もお見舞いに来てくれた。
また、親友とその妹、そのお母さんもお見舞いに来てくれて、泣いて謝ってくれた。私もきっと泣いたと思う。

その時には、もう私は自分がどんなに世間とか、上下関係の大切さとかを知らなかったなと病院で感じ始めていた。

こうなったことも自分が招いた結果。信頼した友達を間違えてしまった自分の所為だと考えていたため、とても申し訳なく感じたのを覚えている。

病院生活もこれまたよく覚えていなく(笑)人間は嫌な記憶は本当に薄れさせるような機能があって便利だなと思う反面、こうやって誰かに伝えたいとき覚えていないではすまされないのでちょっと不便だ。

多分3か月ぐらい?は入院していたと思う。やっと食べれるようになって、少しずつ元気が戻ってきて、退院した。
あの時、私を受診してくれた先生には、私に居場所を提供してくれたことを心から感謝する。
入院していなかったら、もっと酷くなっていたと思う。
退院してから、すぐ学校に行ける状態ではなかった。
医者の診断名は「自律神経失調症」と「過敏性胃腸炎」だった。
学校に行けなくなってからも、学校に行くことを考えるだけでお腹が痛くなったり、学校に近づくに連れてお腹が痛くなったりとしていた。

何とか食べる元気は戻していたので、当時やせ体質だった私は一気に10kgは太ったと思う。
また、朝型からまるっきり夜型になり、今まで皮膚に敏感ではなかったのに、急に顔に湿疹やかぶれ、手に痒みや湿疹ができるようになった。

退院したものの、性格も体の体質も180度変わった私。
学校に行きたいだなんて微塵も思うことなく、ただ日々を過ごしていた。

3.退院から学校に通えるようになるまで、不登校の親はしんどい


ArtTowerによるPixabayからの画像

退院してから、学校に通えるようになるまでは、毎日家に引きこもっていた。
当時、父が使っていたパソコンでブラインドタッチのゲームや、また当時ドはまりしていた「犬夜叉」のサイト(同人誌や、イラスト、ドリーム小説)を見たり、またお絵かき掲示板で犬夜叉で登場するキャラクターをよく書いたり、名前の知らない人と掲示板上でコミュニケーションするのが楽しかった。

何カ月も休んでいたにも関わらず、勉強しなくちゃいけないとか、そういう焦りはなかった。いや、そこまで考えられていなかった。

また、母は私には理解を示してくれていたので、休みの日はなるべく外出や、近所に住んでいる不登校に理解のある親戚と会ったり、なるべく社会と関わり合えるようにしてくれていたと思う。
夜は相変わらずすぐには寝れなかったので、当時テレビにも興味が失せていた私はラジオを聞いていたりして眠りについていた。

私はよく覚えていないのだが、当時朝起きるときにアラームを設定できるCDデッキがあり、それで私がアラームとして設定していた。
曲は今話題の「M愛すべき人がいて [ 小松成美 ]」という暴露本を出した、浜崎あゆみさんの「A song for ×××」だった。

知らない人は一度聞いてみてほしいのだが、今思うと大層暗い曲(;’∀’)
「居場所がなかった、見つからなかった、一人きりで生きていく…」といったもので、当時の私の心境を表していたため、心のどこかで共感していたのだと思う。
泣きたいときは泣けば良いと言うように、暗い時には暗い曲を聞くのも一つの療養方法なんだと今考えるとそう思った。

そんな日々を過ごすなか、ある日担任の先生と同級生が見舞いに来てくれた。
同級生と言ってもトラブル外の同級生で(そこまで仲良くない)、小学校から何回か遊んだことのある子たちだった。

そういえば、ここで担任の先生の話をしたいと思う。
私が不登校になってから、卒業するまでこの先生はとても良く接してくれた。

不登校になり、母は一度はこの先生から「フリースクールに通ってみてはいかがだろうか」と持ちかけられたらしい。
その時、母は激怒した。ちょっと過保護に思われる方もいらっしゃるかもしれないが、トラブルの原因が私にもあるとは言え、何も対策や原因の追究をしない、該当の生徒に面談や確認もないままフリースクールを進める、という学校の対応が許せなかったと言いう。

そして、学校側がそういう対応ならこちらも出るとこでます!校長先生にもそのようにお伝えください!と言ったらしい。
それから学校側の対応は180度変わり、フリースクールを進まれることなく、体調回復と私の意欲の回復を待つ、という姿勢に変わった。

私は全然知らなかったのだが、父は心配してはいるこそも私にどういう対応をして良いか分からなかったため、母は一人で私のことを抱え込む形になった。
時には先生に泣きながら電話をしたり、胃に穴が開くくらい毎日胃痛に悩まされた。
担任の先生はその度にしっかりと母の話に耳を傾けてくれ、私が学校に通いやすくなるためにと該当の生徒との面談や、対応の進捗を母に報告してくれたり、私の様子を必ず確認する姿勢を見せてくれたという。

担任の先生と同級生が見舞いにきてくれても、私はすぐに学校に通えるようにはならなかった。
同級生もトラブル外の生徒であったが、自分が不登校になっていることや、その現状を見られたことが少し恥ずかしいような、何とも言えない気持ちを感じた。
でも、自分を待っていてくれる人もいるんだと少しながら思えたことは、自分への自信に繋がったと思う。

ある日、私は「学校に行く」と母に言った。
母は特に気にせず、「じゃあ一緒に途中まで行こう」と言ってくれたらしい。
なぜ学校に行こうと思ったのかは分からない。
勉強に追いつけない、ということも考えていなかったと思う。
心の病はきっとそういうものだと思う。自分で行動しようと思える気が必ず来る。

学校に通えるようになっても、早退や欠勤は多かった。
体調的には回復したものの、数カ月も他人と関わることや、机に座って勉強すること、
体育や、頭を使うことが不登校の日々に飛躍的に多くなり、「家に帰りたい」「学校に行きたくない」という日々が続いた。

トラブルの生徒もまだ在校中だったのも原因の一つだったと思う。
授業によって移動するときは、廊下で出会わない日は必ずしもないとは言えなかった。

学校が通えるようになってから、私が一番覚えているのが「毎日がつまらない」ということだった。
これはきっと中二病じゃないかな(笑)と思うこともあるのだが、自律神経失調症、過敏性胃腸炎、拒食症、入院という普通の中学生なら笑って青春を謳歌している時に、自分は地獄を味わってきた。死にたい、消えたいと強く思う出来事をどれだけ同級生が経験しているのか。いや、きっとしていない。
皆バカみたいに群がって、子供だなと恥ずかしながら思っていた。

また時々男子が先生にやらかすイタズラも心底嫌っていた。
何となく学校に行けるようになってから、私はやっと自分の学習レベルが低いことに気づいた。
今まで休んだ分をどうにか追いつけるようにと授業にはとても真面目に受けていたと思う。

ある日、Sという男子が授業中に騒ぐ。どこにでも見られる学校の風景だ。
先生が注意しても収まらない、周囲の生徒は先生に同情するものや、笑ったりするものがいた。
そんななか、私は「S、うるさい。」といった。
小学校から知っている仲だったこともあり、気軽に注意できた。
するとSはすんなりと黙り、先生も注意した私を褒めてくれた。

そのSは小学校の頃から何かと私に話しかけたり、下校途中も途中まで一緒だったため、なんやかんやとついてくる変なやつだった。
何故だか分からないか、「Sはモンゴロイドの言うことはきく」ということから、よくSを注意していたのは覚えている。

また、休み時間になるとその日の日直が黒板を消すという役割だったが、その日また男子生徒が消さなく先生が黒板を消すまで授業はしないと言いだした。
しばらくクラスはしーんとした空気になったが、ここも私はこんな無駄な時間を過ごすならと、席を立ち黒板を消した。
先生は私の行動に感銘を受け、女子生徒からの好感はアップした。

こうやって見ると、私は昔から正義感が強い人間なのだと思う。
もちろん自分のためというのもあるのだが、やはり「誰もやらないのなら私がやる」というどこか正義感めいた性格は、大人になってから苦労することもあるということを知った。

同級生と自分との経験の違い、男子生徒がするイタズラ、女子生徒の群れる習性。
そんなこと日々見ていると、こんなつまらない人生がいつまで続くんだろうと良く思っていた。

時には先程紹介した先生に「人生がつまらない」というような、今思えば中二病全開的な発言をして先生を困らせた。あの時の自分は本当にどうにかしていたと思うので、今も同級生には絶対に会いたくない(笑)

体調を取り戻し、何となく学校に行ける日々も続くようになったのは、好きな漫画とそれを共有する友達ができたから。

中学校一年から不登校になるまで、野球部のマネージャーをしていたのだが、
トラブルの原因がそこにもあると思い、美術部へ変更。

美術部は本当に性格の大人しい子たちばかり、先輩も大人しい人ばかりで美術部は私のように不登校になった生徒がいく場所みたいな感覚だった。

同じ時期に不登校になった子がいたり、小学校の時にとても仲の良かった子達が美術部にいたということもあり、自分なりの居場所を見つけられた。

そこで私は色んな刺激を受けた。
全然興味のなかった洋楽(アブリル・ラヴィーン)を知ったことで、兄も洋楽(パンク)が好きだったことを知ったり、V系、椎名林檎などあらゆる種類の音楽を知れた。

CD/三毒史 (通常盤)/椎名林檎/UPCH-20513


また、紹介された漫画「最遊記」にとてもはまり、峰倉かずや先生が手掛ける作品や、イラスト集をよく買っていた。

【漫画全巻セット】【中古】最遊記 RELOAD <1〜10巻完結> 峰倉かずや

良く趣味を見つけなさいとか、好きなことをするのが心の薬と言われるが、本当にそう思う。
共通の趣味を共有することや、その話をすることで私の心もより回復をしていった。

 

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