うつ病の症状3悩みの種が消えた矢先に震災、そして…

うつ病の症状

当時は嫌だな~という思いはありませんでした。むしろ、とても嬉しかったです。
大きい会社ではないものの、社会人3ヶ月でアパレル会社を退職した二十歳そこらの自分が数十人いる人をまとめる役割を命じられたことは、自信をすっかり失くしていた私を奮い立たせてくれるものでした。

Tさんからある程度は全ての仕事を任されるようになっており、働いている方たちもモンゴロイドなら大丈夫だよ!頑張ってね!と心から応援される環境でした。

Tさんが異動となり、店長も変わり、初めてのご挨拶とキッチンのリーダーと店長と私で休憩中にご飯を食べながら色々話そうとしてました。

忘れもしない、2011年3月11日14時46分。宮城沖地震がきました。

駅構内のレストランのため、外に走って逃げなきゃ!という感覚より、すぐに死を覚悟したほどの揺れでした。

お客様も何人もお食事をされていて、皆さんテーブルの下に隠れているので、従業員の私たちはレストランの空いたスペースで頭を覆いながら地震が収まるのを待っていました。

勤めていたレストランでは炭を焼いて使う料理だったため、店長はすぐに火を消すように言い、自動扉の電源を切りいつでも出られるように開けました。

揺れが長かった記憶がとてもあります。テーブルの上にあった食器や、ガラスのコップがいくつも床に落ちたり、自動ドアの扉が外れると思うほどガタガタいっていました。
海側の人達の被害に比べたら、仙台都心部は津波がなかったのでそこまで被害はありませんでしたが、絶対に動くことが考えられない大きいな冷蔵庫まで動いていた時にはこうやって人は死んでいくんだなと思いました。
地震がなんとか治まり、無事天井も落ちることなく、テーブルの下に隠れていたお客様や従業員全員が無事でした。
とりあえずお客様を出すことが優先でしたので、お食事をしていた皆様にとりあえず駅構内から逃げるように言いました。
人間って動揺している時って、正確な判断ができない時ってあるじゃないですか?
一刻も早くこの場から逃げた方がいいのに、会計はします!というお客様がいらっしゃった時には、ありがたいのですが、それより早く逃げてください!と言いました(笑)

お客様を避難させ、私たち従業員は火・ガス・電気など火災に繋がるものだけ確認し、駅構内の安全な場所へ避難しました。
店舗から出ると、駅構内は天井が剥がれたり、天井から水が漏れて滝のように流れていたりと外に逃げる間までもとても怖かったのを覚えています。
無事従業員の全員の安否や進んだものの、電気も使えず連絡が取れないなか、
とりあえず近場以外の人達は駅近くにある本店で凍えるような一夜を過ごしました。

震災時、私の家族は全員無事でした。これは本当に幸運なことです。
電気・水・ガスが使えない日々が続き、食べるものもなくなったり、
私の両親は離婚していたため、母・姉(妊婦)・私の3人で何日も暗い夜を過ごしました。
職場の上司が私の家庭環境を知ってか、水などを持ってくださるのを手伝ったり、
仙台都心部は比較的すぐに復旧の目途がたったこともあり、勤めていた飲食店もすぐに営業を開始することができたことで、時々余ったお弁当や食材を持ち帰ることができました。

地震が起きた時、眠れない日々が続いたものの、仕事にはしばらく行かなくて済んでいたので精神的負担は少なかったと思います。
むしろ、お腹の大きいお姉ちゃんや、年配の母を見て、私が頑張らなくちゃと力んでいたと思いますし、職場の悩みの種がなくなっていたことから仕事自体はとても楽しめていたんです。

また、震災という共通の体験をしたことにより、職場の人との関係もとても強固なもの変わっていきました。
やっと電車が開通し、普通の生活がなんとか過ごせるようになり、仕事も今まで通りにできるようになったころ、私は今までで一番働いていたと思います。

ホール長になったことから、シフトを作成するのも私の役割です。
パートの伯母さんは扶養に入っている方もいるため、年間決められた額しか働けません。
また、アルバイトの子を除いては私が一番年下だっため、年上の方があまりきつくないシフトを作っていました。
私が一番頑張らなくちゃ、周りの人もついてきてくれないと思っていたため、月1回だけの休みもありましたし、残業が月100越え時間は当たり前でした。
それでも仕事が楽しかったし、皆が心地よく働いているのが私が一番だと思っていたのです。
今では本当に良くやっていたなぁと、あの頃の自分を心から褒めてあげたいですが、
いつも疲れていて休憩時間は食べらず寝ている日も多く、しかし夜はお腹が減るので過食気味になるものの体重は減り、煙草は増える一方でした。
めちゃくちゃな生活だったと思います。休みの日も職場に行くほど仕事中毒でした。

日々の単なる仕事や、従業員同士の争いごとなどはどうにか耐えることができていました。
しかし、ホール長という一応責任ある立場と、服装も他の従業員とは違ったため、お客様は一目で私がリーダーだと認識します。
最初は料理のクレームや、待ち時間が長いことなどごくごくありふれたクレームで、私も申し訳ないなという気持ちを素直を感じることができました。
それでも、中には言いがかりといういようなお客様も当然いて、私はそれに悩んでいました。

一番覚えているのは、当時まだ全席禁煙という概念があまりなかった時
席に座ってから喫煙だったら入らなかったというクレームは多々あったので、
全員のお客様に申し訳ございませんが、全席喫煙となっておりますがよろしいですか?ということを毎回聞いていました。
殆どのお客様が全然良いよと承諾をしてくれるなか、その方は来られました。
普通の40代ぐらいの男性客でしたが、私が全席喫煙という旨を伝えると、今時喫煙なんて何を考えているの?と言いました。
私は謝るしかありません。誠に申し訳ございませんが…と言いましたが、彼は文句の言葉をやめません。
お医者様なのか分かりませんでしたが、厚生労働省という名称が出てきたり、とりあえず私に対して喫煙がどんなに体に悪いことなのか、周りへの影響がどれほどあるかをくどくどと言っていました。
煙草嫌いな人の気持ちも分かるのですが、会社が決めた事に対し、一個人である従業員である私がその方針を即時に変えることができないのに何でこの人は私にそんなことを言ってくるのだろう。
私としてはとても理不尽で、ただ感情をぶつけられているとしか感じられなく涙を流しながら謝るしかありませんでした

またこんなこともありました。
勤めていた飲食店ではお弁当もあります。
たまにそのお弁当の中身の内容を変えてくれという人がいらっしゃいましたが、会社からそれは一律で変更はしないようにと厳しく言われていました。
お客様も会社から厳しく言われていることや、他のお客様もそのようにしていただいている旨を伝えると残念がりはしましたが、承諾してくれる人ばかりです。
しかし、世のなかには本当にいろんな方がいるもので、中々食い下がらない方がいらっしゃいました。若い男性で少しヤンキー風でした。
見た目だけでちょっと怖いのに関わらず、なかなか食い下がらないので男性の職員に対応を変わってもらおうかなと思いましたが、「ふ~ん、お前らは上の言ったことしか聞けない奴らなんだな!!!」と笑いながら言われました
これも申し訳ございません、と謝るしかありませんでしたが、もうそのころの私は心の余裕がなく怒りの表情が出ていたと思います。
するとお客様が「おまえなんだその顔!!」と言って殴りかかってきました
近くに居た年配の男性職員が何とか押さえつけたものの、そこまでされるほど私が悪いことをしたのか?という思いと恐怖でまた号泣してしまいました。

そんな理不尽なクレームはよく来ます。
新幹線がもうすぐ来るから順番一番にしろとか、あらかじめ時間がかかることを承諾していただいているにも関わらずそれより前に料理を出せなど、時間がないのは分かりますが、それなら時間に余裕をもってくればいいのに…と思わざるを得ないことや、
本当に「こいつ何言ってんだ?」というような人まで…

それが仕事でしょ、と言われたら終わりなのですが、当時の私にはそんな余裕がないほど人との関わりが嫌になっていました。

接客で一番大切なお客様への対応。笑顔もできず、なんで私がこんなこと言われなきゃいけないの?と思っていた日々、私に対するクレームは日々増えるばかりでした。

もう辞めたい。仕事も働いている人も好きだけど、笑顔で接客なんて無理!!
でも、一社目を3ヶ月で辞めて、何もこれといった資格を持っていない私が働ける所なんてあるんだろうか・・・そんな思いを抱えながら日々限界が来るまで頑張っていました。

 

当時は今振り返っても嫌な思い出ばかりですし、今でも夢に出るほど少しのトラウマになっています。
でも、あそこで頑張っていなかったら、心や体調が崩れることもなかったのに…と後悔ばかりです。
でも、嫌な仕事を5年間頑張れたことは、私の中で唯一一般人らしい行動です(笑)
普通なら何十年とか勤めるんですけどね…

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